■ジネンカフェ

 概要
名称  ジネンカフェ
日程  2007年1/21.11:30〜1630
3/3
場所  名古屋市総合社会福祉会館
くれよんBOX
参加費  Vol,001:一般:1,000円、学生:500円
Vol.002〜300円
定員  最高 51名
内容 

目的 
ノーマライゼーションという視点を通して、自分らしい生き方や、自分らしく生きられる社会の在り様を考え、発信してゆく。

Vol.001チラシ



続きは、ブログで発信しています。→こちらからどうぞ。

ジネンカフェVol.018》

今月のゲストは、日進市の障がいをもった子どもの家族と、その支援者の会〈じゃんぐるじむ〉の代表をされておられる竹内由美子さん。

竹内さんは結婚をされて長男を授かるまで、至極普通の女性としての人生を歩いてきた。しかし、長男Hくんと年子で授かったGくんに発達障がいが見つかり、竹内さんの人生は一変する。一概に発達障がいといっても様々な障がいがあるが、Gくんの場合は自閉症である。自閉症はちょっと前まで〈引きこもり〉と混同されていたが、脳の発達障がいであると判明した今でも、偏見の目で見られることが多く、我が子の病気自体を受け入れられない親も少なからずいる。竹内さんも上のお子さんと比べてGくんが少し健常児と違っていることは解ってはいたが、〈まさかそんな筈はない…〉という思いと、検診により病名が付けられることが不安で仕方がなく、検診までの日々を人目を忍ぶように過ごしていたという。

しかし、検診は母子手帳を貰えば、その親子がどこに引っ越そうと案内が来るもので、実際三好町から日進市に転居した竹内さん親子にも日進市の保健所からの案内が来た。1歳児検診の時は何とか少し発達が遅れているというだけだったのだが、3歳児検診ともなると健常児と障害児との区別がはっきりとしてくる。半ば覚悟はしていたものの、我が子に自閉症という病名が告げられた竹内さんは、どうしてよいのかわからず悲嘆にくれたという。しかし、たとえ悲嘆にくれていようと、日常生活は待ってはくれない。竹内さんは主婦として、二児の母親として懸命に務めながら、Gくんくの療育にも積極的に取り組んで行った。自分がもしいなくなったとしても、Gくんが生きて行けるように、自分で物事を決められるように…。その成果もあり、現在のGくんは小学校の分団登校も出来るようになったばかりではなく、言葉も話し始めた。そして何よりも竹内さんを勇気づけてくれることは、竹内さんが忙しない毎日の中で、どうしても気分的に落ち込んでしまう時もある。そんなとき、眉間に浮かべているしわをGくんが指で撫でてくれることだ。Gくんはお母さんの笑顔が大好きなのだ。それ以来、竹内さんはいつでも笑顔でいようとしているのだという。

竹内さんが自分と同じく障がい児をもつお母さんたちのための会を作ろうと思い立ったのは、世の中こんなにも情報が溢れているのに、自分たちに必要な情報はなかなか入って来ない。発達障がい自体が近年になって知られるようになってきているものの、行政の福祉担当者や街の小児科医にも知らない人たちが多く、自分たちの子どものことをもっと知って欲しい…と思ったからである。そしてこんな思いをしているのは、自分だけではないだろうと考え、「すくすく園」という発達障がい児専門の幼稚園のママ友たちに声をかけて結成した。現在の会員は20数名に及び、発達障がい啓発のための映画会を主催したり、講演会なども企画・運営する活動を積極的に展開している。

最後に竹内さんは、これから子どもを産むであろう若い女性の参加者、二人目、三人目を産むことを迷っている会員のお母さんたちに向けて〈現在は母体にいる時から、生まれてくる子に障がいがあるかどうか検査によってわかりますよね。障がい児を生む、生まないはその家庭の選択だけど、勇気をもって生んで下さい。健常児も障がい児も変わらない可愛い我が子には違いありませんから〉と言い、お話を締めくくられた。

この日は、竹内さんのパワーが福となし、過去の最高参加者人数を遙かに上回る参加人数だった。参加者からも質問やご意見が数多く飛び交い、活発な意見交換が交わされた。


発達障がい児の世界は、まだまだ一般的に理解されてはいません。興味深く竹内さんのお話を聞く参加者。

自閉症をもつ子どもさんを抱えながら、自分と同じ悩みや苦しみをもつ家族のために活動をしている竹内さん。


《ジネンカフェVol.017》
MOMOではじめてのジネンカフェを行った。ゲストは東区障害者地域生活支援センターの相談員・猪猪真理子さん。支援センターでは相談業務の他にも福祉講座での講師も仕事として行っているが、センターの職員さんの中で一番若い猪猪さんはこれが講師デビューだという。支援センターで一緒に昼食を食べながら資料の最終確認をした後、MOMOに向かった、

今回のテーマは『障がい者のジリツって何だろう?』猪猪真理子さんは、1983年東京生まれの愛知県西枇杷島育ち。高校の頃から福祉科コース選択して以来、大学も福祉系、大学のサークルにも入らずに、たまたまバイトで現在の勤め先・社福法人名古屋東福祉協会のガイドヘルパーや、グループホームの世話人をしていた縁で同法人に勤務し、現在は支援センターに配属されているという経歴だ。人生の大半を福祉と共に歩いてきた人なのだが、話をしていると非常にさばけている部分もあり、なかなかにユニークな人である。

猪猪さんのお話は、まず支援センターの説明から始められた。障害者地域生活支援センターは、障害者自立支援法を受けて名古屋市が市内の社福法人に委託して各区にそれぞれ作られている、障害者の地域生活における相談所のようなところだ。主な業務としては自立支援法に関する情報の提供、福祉サービス選択のための相談援助、事業者、施設等との利用調整、ケア計画の作成などをしている。相談の対象者としては、名古屋市に住んでいる身体障害児・者、知的障害児・者とその家族となっている。

今回のテーマは『障害者のジリツ』を考えることにあったが、そもそも「障害者」と呼ばれる人たちが、全国にどれぐらいいるのかと云えば、俗にいう三障害をあわせて日本の人口の5.6%である。ならばこの障害者の障害の定義とは、どんなことであろうか? 世界保健機関の1980年分類モデルによれば、機能障害・能力低下・社会的不利という概念で説明されていたが、最近では新しく環境因子と個人因子とが加えられて、社会参加や活動に制限が多い人ほど障害があるとされる分類(ICF)が発表されている。

日本の障害者に関する福祉制度は、戦後から平成15年3月まで「措置制度」が取られていた。諸外国と同じようにはじめの頃は戦傷軍人のための経済的援助という側面もあったらしいが、それが徐々に広がっていったのだ。平成15年4月から「支援費制度」が始まる。支援費制度というのは、それまでの「措置制度」だと本人の意思は二の次で、各市町村の福祉担当課に決定権があったものを、障がいのある本人が主体的に選択し、豊かな地域生活を実現してゆく制度としてスタートさせたものだが、国が当初見積もっていた利用者数に比べて遙かに上回る利用希望者が殺到し、支援費制度自体が破綻してしまった。この支援費制度破綻の教訓から、障がい者の地域生活を支援してゆく財源として国が出してきた案が、福祉サービスの対象者にも1割を負担してもらおうと打ち出してきたものが悪名高い、障害者自立支援法である。つまり国の失策のツケから生まれた法律なのである。負担率が1割負担になったのも、実は介護保険との一元化を睨んでのことであった。

自立支援法については、その悪い面ばかりが表立っているが、実は画期的な面もあるのだ。それまで支援費制度から外されていた精神障がい者や心身障がい児が自立支援法の中に組み込まれたことで、精神障がいをもった人たちにも支援の手が差し伸ばされることになったのである。それともうひとつの目玉は、就労支援の強化である。ただ、これは厚労省内部でも旧厚生省側と労働省側との折り合いがつかないままに見切り発車させてしまったためにバタバタとした、筋の通らぬ法律になってしまっているようだ。

最後に猪猪さんは事例をあげながら、今回のテーマである「障がい者のジリツと
はなんだろう」という問題提起をされた。「自立」という言葉を広辞苑で調べてみると、「他人の援助や支配を受けず、自分の力で身を立てること」とある。しかし、最近では「身のまわりのことで人に手伝ってもらうことはあっても、自分の生活は自分で決めて、自分の責任で人生を送ってゆく」という意味の〈自律〉という漢字が使われることがある。猪猪さんも、障がい者のジリツとは、この自律という言葉が使われるのが適切なのではないかという。そして障がい者が地域で生活してゆくためには、福祉支援の専門職だけではなく、地域の人たちとのサポートも必要であることを、Yさんという実在した人の生活を事例にあげてお話を締めくくられた。

猪猪さんのお話が終わり、質問タイムを経て主題に立ち戻り、参加者それぞれに「障がい者にとってジリツとはどんなことなのか」を考えたことを意見交換してもらうことにした。それを私なりにまとめてみると「心のセルフケアを含めて、自己の人生をコーディネートしてゆくことが、障がい者にとってのジリツなのではないか。もちろんそれには福祉の専門職の方も必要であるし、地域の人たちのサポートも必要。それには日頃からの交流も必要になって来よう。しかし、これは障がい者だけに限らず、人はやはりひとりでは生きてはいけない。人はやはり他者と巡りあい、お互いに支え、支えられながら生きて行けるものなのだ」ということになった。


参加者それぞれにジリツについて考えてもらいました。


パワーポイントを使いながら、障がい者のジリツについて支援専門職として語る猪飼さん。


《ジネンカフェVol.015》
ゲストの安藤拓生さんは、NPO法人りーぱの理事であり、天白の障がい者地域活動支援事業所/和工房TAN・KEIの店長だ。しかし、安藤さんの肩書きはそれだけには止まらない。地元のミニコミ誌の記者でもあり、地元商店街協同組合の理事もされている。おまけに地元某マンションの防災活動にまで参加しているという。しかし、それらの活動はただ一点、TAN・KEIの店主として名前と人柄を知ってもらい、自分たちスタッフを含めて、和工房TAN・KEIという障がい者の居場所を地域に根付かせたい…という想いに収斂される。

1977年に名古屋で生まれて岐阜で育った安藤さんは、故・渥美清さん演じる寅さんの「生まれも育ちも葛飾柴又です」というセリフに憧れて、「地元」に根付きたい、溶け込みたいという意識が強いという。そんな安藤さんも中学生まで福祉というものを意識したことがなく、知的障がいを持っている子を虐めたりしていた。中学3年の頃、好きな女の子の影響で「福祉」というものを考える機会があり、進学した工業高校の文化祭をきっかけに、地元にあった点字図書館でボランティアをし、なんとなく福祉方面を進路として希望。名古屋の介護福祉士養成学校に通い、名東区「育成会青年部」のボラ・グループで活動し始める。

縁あって新規小規模作業所の職員として就職したものの、上司とぶつかることが多く、その考え方の相違から七年後に同じ職場の職員6名と一緒に退職し、その6名が中心となって和工房TAN・KEIを立ち上げ、NPO法人りーぱを設立させた。前の作業所を退職することになった最大のきっかけは、〈利用者の障がいを持った人たちとどう向き合うべきか…〉という、福祉職に就いている人が誰もがくぐる問題にあった。安藤さんは言う。「職員もひとりの人間、利用者さんといつも笑顔ばかりで接することは出来ない…」と。この安藤さんの言葉で、前の職場の所長さんとの論点が解ろうというものだ。そうなのだ。作業所や授産施設の職員と利用者との関係は、本来対等でなければいけないのではないだろうか? 〈福祉〉と〈福祉サービス〉との間に横たわっているもの。〈福祉〉が〈福祉サービス〉と名前を替えるとき、対象となる人間はその施設や職員さんにとって〈利用者〉〈顧客〉になるのである。共に生きる関係というよりも、仕事を教える指導員となるのである。だから〈利用者〉さんのご機嫌を取らなければいけないし、マックのクルーのように〈お客〉様の前ではいつでも笑顔でいなければならないのである。しかし、仕事はキツイ。笑おうと思っても笑えなくなり、精神的な問題を抱えるようになる…。日本の福祉現場が抱える問題でもある。

障害者地域活動事業所なのに、あえてその名称を使わず、雑貨店〈和工房TAN ・KEI〉を名乗っているのも、施設長とか所長ではな店主と名乗っているのも、安藤さんの考える福祉観の表れである。障がいをもった人たちと〈仲間〉でありたい。そしてその〈仲間たち〉と共にTAN・KEIブランドを販売する雑貨店を創りたい…と思っているのである。

近頃は障害者地域活動事業所が作り、販売している製品の中にも、一般のお店に並べてもデザイン的に優れていたり、機能的だったり、クッキーにしろ、パンにしろ、マドレーヌにしろ、美味しい食品が作られ、一般向けの雑誌にも特集記事として紹介されるようになっている。しかし、その価格は相変わらず安い。安藤さんも疑問を投げかけておられたが、私も障がい者が作ったものだから…。福祉のお店の商品だから…。安く販売したり、それをあたりまえのように購入する日本の福祉を取り巻く風潮は、間違っていると思う。その商品が美味しければ美味しいなりの、その製品が素晴らしければそれなりの対価を支払って然るべきだと思うのだ。

逆に言えば事業所で商品や製品を作る場合、他と同じことをしていてはいつまで経っても〈やはり障がい者が作ったものだから…〉というレッテルを貼られ、相変わらず安く販売しなければ売れないものになってしまう。参加者のひとりがいみじくも言っていたが、授産製品や食品にもブランド力をつける必要があるだろう。安藤さんがやろうとしているのは、まさにそれなのである。いまは看板も出せないマンションの一室でほそぼそと活動しているが、近い将来やはり地元の天白に、仲間たちと「和工房TAN・KEI」という名の雑貨店をオープンさせたいのだと安藤さんは言う。その安藤さんの夢、安藤さんの仲間たちの夢が叶えられることを祈りたい…。


いろいろな顔を持っている安藤さんのお話しに参加者も興味津々。


いろいろな活動をしている安藤さんの夢はただひとつ。



《ジネンカフェVol.014
今回のゲストは、NPO法人ひとにやさしいまちづくりネットワーク・東海
副代表の鬼頭弘子さん。
 
鬼頭弘子さんは北陸の金沢市の生まれで、大阪万博で黒川紀章氏デザインのパビリオンに感動して建築を志した。中部大学に入学し、4年生の率論のテーマが『名古屋市における社会教育施設のあり方に関する調査』 その調査のために名古屋市中を歩きまわり、アンケートの配布、集計作業をしたという。その時の担当教官だった佐藤圭二先生の口癖が「世の中の役に立つ調査、考察、提案をしろ」というもので、その10年後に愛知県の人にやさしい街づくり連続講座を受講することになる。

福祉のまちづくり条例は日本各地にあるが、愛知県ではそれを
〈人にやさしい街づくり条例〉として施行し、それを県民に広く普及させるために毎年連続講座を行い、アドバイザーを養成したり、条例に適合している建築物や活動を表彰している。しかし、それはあくまでも条例なので、一応は一定の延べ床面積の建築物を施工する際、確認申請とともに整備計画書を提出することになっているから、建築を生業にしている人たちにはよく知られているのだが、一般の県民に広く知られているかといえば、これがそうでもない。福祉を職業にしている人の中でも知っている人はそれほど多くないだろう。

愛知県がどうしてこの条例を〈福祉のまちづくり〉ではなく、
〈人にやさしい街づくり〉と名付けたのか…? そしてどうしてその所管が福祉系ではなくて、建築系なのか? そこにはこの条例を武器にして街を変えたい。バリアをなくしたい…と思うひとりの当事者活動家と、ひとりの県庁職員との出会いと思惑があったのだ。条例自体は2004年に改正されて建物から街のバリアフリー化へと広がってきている。

受講した年だけで「連続講座」から卒業してしまう人も多い中、鬼頭さんは翌年も講座の手伝いをして、グループワークにも参加。そのときのテーマが『人にやさしい街づくりのための人づくり〜障害をもった子どもの教育と学校教育における障害者理解のための教育、その現状』というタイトルの長いレポートを作成することになり、その調査の過程で教育界において障害児がおかれている理不尽な現状を知ることになる。同じ頃にご自分の子どもさんも学校の中で理不尽なトラブルに遭っていた現状とも重なり、世の中に対する怒りがこみ上げてきて、その怒りが仲間とともに『お姉ちゃんと同じ学校に通いたい!』という本を自費出版させてしまう。その本を売り歩く課程で鬼頭さんは「障害者運動や権利の問題は自分の問題と同じだ」と気づいたという。

怒りのパッションに突き動かされて活動を続けていた鬼頭さんだったが、いつの頃からか空しさも感じていた。〈私が怒っても何も変わらない…〉〈どうしたら街を変えられるのか、世の中が変わってくれるのか…〉ある時、その疑問を三重大学の浅野聡先生にぶつけた。浅野先生の答えは「その方法があるのなら私も知りたいですよ」であったらしい。そんなことを何年か続けていて、鬼頭さんは怒りだけでは世の中何も変わらないし、変えられない。返ってあちらこちらに溝をつくるだけだ…と思い、そこで人街条例や連続講座をツールとして使って「ひとにやさしいまちづくり」を展開して行けば良いのではないかと気づいたのだ。宮澤賢治の童話の一節に「世界がぜんたい幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない」という、賢治独特の世界観を表した言葉があるが、そんな思いだったという。

まちづくりというものは短期間で結果が出るものではない。そこで市民主体の「ひとにやさしいまちづくり」運動を、従来の障害者運動や市民運動から学びながら、新たな展開を創ってゆきたい。どのようにしたら世間を味方につけて、街を変えてゆけるか…? 〈ひとまち〉をこっそり仕込んだり、堂々と事業展開したり、その作戦を練ることが難しさであると共に面白さ、楽しさであると、鬼頭さんはいう。


この日の参加者は過去最高の19名。みなさん真剣な表情で鬼頭さんのお話に耳を傾けていました。


まちづくりの楽しさと難しさを語る鬼頭さん。




《ジネンカフェVol.013》
 ジネンカフェVOL.013のゲストは、かたひらかたろうさんの重田貴子さん。テーマは『転勤族・核家族の子育て』重田さんは1973年山口県岩国市生まれで、5歳と3歳の子どもさんをもたれている、子育てまっさい中のお母さんである。さすがに若いママさんだけあり、お話をされるのにも一工夫しようと、お話を10のパートに区切り、パート毎にタイトルをつけて日めくりのような小道具を使ってお話をされた。

 重田さんが大学を出て就職をして結婚をされたのは、2001年のことであった。ご主人は転勤族。結婚後住んだまちは山口県長門市で、すぐに子どもさんを授かる。重田さんは結論から先に話されていたが、転勤族や核家族の家庭に欠けているもの。それは〈人〉である。お母さんは子どもを抱えてひとりで家事をしなければならず、旦那さんの協力があってもなくても、小さな子どもさんをもったお母さんって何かと不安なものだ。だから重田さんは自分から近所の同年代の奥さんに「友達になって」と言ったそうである。友達って言葉に出してなるものではないと思っていたが、核家族や転勤族の若いママたちはそうでもしないと孤独なうえに不安で精神的に参ってしまうのだろう。やはり子どもはお母さんひとりで育てるのでなく、家庭で、地域で、社会で育てる方がよいのだ。

 長門市の次に住んだまち・鳥取での重田さんの暮らしぶりは一変する。鳥取の冬は雪が深い。買い物に行くのにも、一苦労である。ましてや乳飲み子やまだ小さな子どもさんを抱えた重田さんには、近くのスーパーに行くのでも途方もない重労働になる。そんなとき、同じアパートに住んでいたご主人の会社の同僚の奥さんが〈お助けウーマン〉を買って出てくれる。重田さんがポストの中に買ってきてほしいものを紙に書いて入れておくと、その人が散歩に行くついでに重田さんの注文の品も買ってきてくれるようになったのだ。重田さんにとっては救いの神であり、その人にとっては散歩にゆく口実が出来てお互いにとってよい出会いだったようだ。

 名古屋に越してきてからも、好転的な出会いは続く。保育園に子どもさんを預けるのにも地域格差があるようで、鳥取では重田さんが働いていなくても保育園に上の子を預けることができたが、名古屋ではそれが適わない。困って行政に相談に行ったところ、かたひらかたろうさんを紹介された。一度見学に行ってみると、スタッフの小林さんが気さくな感じで、重田さんがちょっと用足しに行っている間、子どもさんをみていてくれた。重田さんとかたろうさんとの出会いである。

 同じマンションの一軒隣の人とも、たまたま重田さんが病気か何かで寝込んでいたときに、料理の残り物を持ってきてくれたことがきっかけで親しくなった。その人は昔どこの地域にもいた、よその子どもでも正しいことをしたときには褒め、間違ったことをしたときには厳しく叱りつける…というような人なのだそうだ。また、かたひらかたろうさんに集まってくる自分と同年代のママ友や、週に一度大きな鍋に味噌汁やお汁粉などをもってきてくれる、かたろうさんの代表の石川さんにも、スタッフの小林さんにも感謝しているとおっしゃられていた。

 この春から重田さんは、かたろうさんの利用者からスタッフ側にまわるそうだ。結婚して子どもが生まれて周りの温かさに触れるまで、自分さえよければそれでよいと思ってきたが、人と出会い、そのやさしさに触れて行くにつれて、自分が受けた優しさを次に来る人たちに渡して行こう。それが自分を優しく見守り、支えてくれた人たちへの恩返しになる…と、重田さんは考えているのだ。

 重田さんは〈出会った人たちがたまたま良い人たちだったから、周りの人たちに助けられて〉前向きに生きて来られたと受け取られがちだけけど、それは正確ではないと思う。やさしさやぬくもりを例え発信していたとしても、受け取る側のアンテナに問題があったり、感度が鈍かったりすれば、そのやさしさもぬくもりも受け取る側には届かないのだ。つまりよき出会いをしていても、それを素直に受け止められなければ、そこにはなにものも生まれて来ないのである。そう、よき人との出会いは誰にでも可能性はある。しかし、それを恵みとして自分の宝物にするのには能力がいるのだ。重田さんはその才能に満ちあふれた人だと、お話を伺っていて感じた。


若い参加者も重田さんの子育てを興味深く聞いています。



若いママ友やその子どもさんの応援を受けてご自分の子育てについて語る重田さん(左端)



《ジネンカフェVol.012 シンポジウム》
〜自分らしくあり続けられる居場所、まちの中に持っていますか?〜
日時:平成20年2月3日(日)11:30〜16:30
場所:東桜会館第2会議室

 ジネンカフェシンポジウムのスタートは、先ずパーカッション奏者の本多正典さんと教え子の石原直典くんによるドラムの演奏からはじまりました。実は本多さんは有名なアーティストで、感電事故により足を悪くされた方だ。華々しい経歴の人なのだが、物腰が柔らかで、ひょうひょうとしてみえます。愛弟子の石原くんを視るまなざしも温かい。おふたりのコラボレーションによる太鼓のリズムは、会場内の雰囲気を温めるには十分なものでした。

 次に愛知学院大学の西田知也くんの生ギターの弾き語り。西田くんには昨年のディ・キャンプの時も、炎天下の中で文字通り熱唱してもらったことがありますが、何度聴いてもいい声です。くれよんさんのランチは相変わらず大好評で、フォカッチャサンドが特に人気があり、あっという間に品切れになってしまいました…。

 NPO法人草のネット代表の土田正彦さんの講演は、ご自分が躁鬱病を発症された18歳からの人生を語っていただきました。土田さんはご自分の半生を本にまとめられておられますが、それはそれは筆舌に尽くしがたいほどの壮絶な有為転変だったでしょう。社会の偏見や差別に遭い、怒りを感じられた時もあるでしょうが、社会に対して怒りでぶつかるのではなく、患者会を立ち上げられて精神障がい者への理解を促すとともに、就労支援を行ってゆく…。

 しかし、患者会のままでは公的な助成とか保証が得にくいということもあり、NPO法人格を取得された。そして仲間のために、千種区界隈で80軒ばかりの物件を訪ね歩き、とうとう理解ある大家さんに巡りあって、昨年の春から作業所兼居場所をスタートされたという。土田さん曰く「50歳にして、自分の役割がわかった。自分は精神障がいというものを、多くの人たちに理解していただくために、これからも活動してゆきたい」と結ばれ、最後に生ギターの弾き語りをして下さった。土田さんの歌声は西田くんの若々しさとはまた違い、温かみと潤いのある歌声である。土田さんの講演は、同じ病で苦しんでいる方々への大きな励ましともなったようで、会場からも「薬よりも励ましになった」という発言がありました。

第二部のパネルディスカッションでは、育くみ隊の代表理事であり、愛知産業大学大学院の教授でもある延藤安弘先生をコーディネーターにお迎えして、土田さん、NPO法人NPOかわせみ代表代行の横倉裕子さん、くれよんBOX利用者の橋本知佳さん、かたひらかたろうスタッフの小林照美さん、育くみ体の大久保康雄の五人のパネラーたちが、それぞれの視点から「まちの中の居場所」について語り合った。先生の最後のまとめ方は、日頃から「すごいなあ〜」と思っていたが、今回も圧倒されてしまった…。締めくくりのキーワードは「つつみあう」

 最後は本多さん&石原くんの師弟コンビ、西田くん、土田さん、そして飛び入り参加のフルートの西さんの豪華なセッションで締めくくられることになりました。


本多さんと石原くんの演奏は会場を温かく包んでゆく…。


西田くんの歌声には迫力があります。




くれよんBOXさんの美味しいランチメニューは大人気

出店者同士もPRの手伝いや、交流を楽しみました。



土田さんの講演は、参加者の感動と共感を呼び、同じ病に苦しんでいる人たちに裕樹を与えてくれました。




パネルディスカッションでは、精神、知的障がい、肢体不自由者、子育て支援、それぞれの立場から「まちの中の居場所について意見を述べあった。



《ジネンカフェVol.010》
 今回のゲストは、まちの縁側育くみ隊の会員でもあり、延藤安弘先生の教え子でもある丹野綾子さん。
 北海道は札幌出身の丹野さんは、札幌の高専から千葉大に入学した。それまで病気とも障がいとも無縁の彼女だったが、突如として体が動かせなくなるほどの病に見舞われる。自分で調べて〈どうも自分の病気はうつ病なのではないか?〉と思い、精神科に診てもらったら、やはりうつ病だと診断された。投薬治療がはじまったが、一向に治癒する気配がない。大学に出て行っても、もともとの病のせいなのか、薬の副作用のせいなのか体がだるくて動かせず、延藤先生の研究室にいてもほとんどなにもしていない状態だったという。症状が重い時にはとにかく眠くて、一日の内に起きていられるのは6時間で、あとはひたすら眠っていたそうである。でも、躁状態になるといままでのうつの状態が冗談であるかのように活発になり、動きまわっていたそうである。全く病気のことを知らない人が彼女を見たら、わけがわからなかったに違いない。
 それでもなんとか大学を卒業して、縁あって愛知県の岡崎市に引っ越してきて結婚した。しかし、症状は相変わらず寝たり起きたりの生活で、一時は寝たきりの状態が続いた。病院にも入院した。その病院は全国的にも珍しい『睡眠科』という〈睡眠障がい〉を治療するところで、そこでは例え眠くても朝は決められた時間に起きて、一日のリズムをつくることがなされていた。
 この病院に入院中、難病に指定されている甲状腺の病気〈橋本病〉であることが発覚。甲状腺でホルモンが異常に分泌されるのがバセドー氏病だが、橋本病というのは甲状腺のホルモン分泌が異常に減少する病気で、全身の倦怠感やうつ病によく似た症状が現れる。そしてこの治療の過程で、またまた難病の〈てんかん〉が発覚。つまり難病の三重苦である。
 そうした中で丹野さんにふたつの転機が訪れる。ある時、回覧板で住民参加で交流館をつくるワークショップが行われることを知り、またそのコーディネーターに延藤先生の名前が! そして先生が千葉から名古屋に移ってきて、まちの縁側育くみ隊というNPOの代表をしているのを知る。そのワークショップに参加してみたら、大学時代の先輩たちも運営する側にいて、少しずつではあるが手伝うことになった。
 もうひとつの転機は、これも回覧板で近くの小学校で読み聞かせのボランティアを募集しているのを知り、社会復帰のリハビリには最適だと思って応募した。何度目かのミーティングの時、丹野さんは誤って手の指をザックリと切って治療のためにギブスをはめて参加していた。するとある女性が気功のことを教えてくれた。あとでその女性が末期がんであることを知るのだが…。しかし、その女性もいまでも元気にしているという。人間には医学や科学では未だに解明されていない力があるのだろう。
 先生について気功を習っているうちに、それまで薬に依存していたのに、薬を飲まなくても大丈夫な状態になり、いまでも冬場はともすると調子が悪くなるそうだが、病院通いからは卒業できたという。
 丹野さんは、病気になる前の自分は本当に傲慢な人間だったが、病気を得てから自分は人々やいろいろなものに生かされていることに気づくことができた。あたりまえのことがどんなに素晴らしいことか気づくことができた。だから私は、病や障がいは自分へのプレゼントだと思っていると結んだ。また、自分の心の扉を開くのははじめのうちは勇気がいるが、一度開けてしまえば次から次へと新しい展開が待っているものだとも…。これは常々私もそう思っている。
 苦しかったり、悲しかったりすると、なかなか自分がおかれている現状を受け入れられないものだが、受け入れてこそ人は前に向かって歩いて行けるのであろう。今年最後のジネンカフェは、奇しくもジネンカフェのテーマである〈自分らしく生きるには?〉という問いかけに対するひとつの答えとともにしめくくられることになった。


丹野さんのお話に聞き入る参加者




大変な経験を明るく、何の衒いもなく語ってくれました。




《ジネンカフェVol.009》
 今回のゲストはお二人。脳血管障がい者とボランティアで構成されているNPO法人ドリームの大槻慶十さんと伊藤敏明さん。NPO法人ドリームさんは、脳血栓や脳溢血などの後遺症を抱える人たちが、自立してゆくために当事者自らが立ち上げた法人である。主な活動は喫茶店経営、ミニ・ギャラリー、フェア・トレード商品の展示・販売、情報誌の編集・発行等々だ。いままでは中村区のNPOプラザなごやで喫茶店を営業していたが、来年3月に同ビルが取り壊されることになり、引っ越しを余儀なくされている。未だに引っ越し先が見つかっていないという。
 伊藤敏明さんは現在52歳。3年前に狭心症から脳血栓を引き起こして倒れた。倒れる前はビルのメンテナンスの仕事をしていた。仕事が日々忙しく、倒れた場所もなんと車の中。そう、運転中に倒れたのである。一歩間違えばご自身の生命もだが、大惨事を起こして多くの人を巻き込み、犠牲にしていたかも知れないが、狭心症を引き起こしたとき、襲い来る痛みの中で伊藤さんは自分の携帯から救急車を呼び、後続車にも合図を送って事故を防いだという。
 入院した病院の病室の中でも伊藤さんが一番若く、同室の患者さんが次々と帰らぬ人になってゆくのをみるにつれ、〈次は俺の番か?〉と恐れながらも、なんとか生きていたいと思っていたそうだ。それというのも、自分が帰らぬ人になると、ひとり残されるお母さんのことが気がかりだったからだという。そう、伊藤さんは独身なのだ。
 現在は座っていればほとんど障がいを持っている方とは思えないほど回復されておられるが、それでも未だに温泉病院でのリハビリは続けているという。その理由は至極あたりまえのこと。「跳んだり跳ねたり、ボールを投げたりしたいから」ドリームに関わっているのも、九死に一生を得られた生命だから、「同じ後遺症で苦しんでいる人たちを励ましてあげたいから」だとおっしゃられていた。
 実直そのものといった感じの伊藤敏明さんに比べて、大槻慶十さんは軽妙洒脱な人である。
大槻さんは歌手の徳永英明さんが罹られて有名になった〈もやもや病〉だ。 もやもや病とは正式には「ウィリス動脈輪閉塞症」と言い、大脳へ血液を送る頚動
脈が頭の中で詰まったり、狭くなったりするため、脳の深い部分の細い動脈が、不足する脳の血流を補うための助け舟として発達し太くなり、異常な血管構造を構築する病気である。
 その脳血管の影像がタバコの煙の「もやもや」した様子に似ているため「もやもや病」とも呼ばれているのだそうだ。この病気は男性よりも女性の方が多く、また若い人でも発生する。原因は未だに不明な部分が多く、難病に指定されている。アジア人が罹りやすい病気で、殊に日本人に多いのだそうだ。
 大槻さんは脳虚血から発生したという。脳虚血とはラーメン・うどんを食べる時息を吹きかけたり、笛・ハーモニカを吹いたり、大声で歌う時、泣く時、全力疾走した時など、血液中の二酸化炭素濃度が低下し、脳への血流が減少することで起きる脳血管の病気で、意識が悪くなる、意識が遠くなる感じがする、手足の麻痺が出る、言葉が出にくくなる、四肢の不随運動が出て、頭痛、けいれん、感覚の異常や精神症状が出ることもあり.脳梗塞になると知能低下が起こることもあるという。
 そんな大変な病気を抱えながらも、大槻さんはとにかく明るく、よく喋る。 人とのコミュニケーションが楽しみで、生きている実感がもてるという。大槻さんは〈もやの会〉という、もやもや病の人たちの集まりにも参加されているのだが、高次脳障がいの甥御さんをもたれているそうで、高次脳障がい者に対する理解と、福祉援助を求める活動もしていらっしゃるとか…。
 伊藤さんも大槻さんもドリームさんでは情報誌の編集・発行を担当されているというが、取材に行ったり、情報誌を販売したりして、あちらこちらをまわって人と話すことが楽しくて仕方がないらしい。おふたりの元気で活動的で前向きな生き方の源は、この他者とのコミュニケーションにあるのかも知れない。
 人とは、他者とのふれあいを求めてやまない生き物なのだ。ドリームさんの引っ越し先が一日も早く見つかることを祈りたい…。


伊藤さん(右から2人目)も、大槻さん(左から2人目):も、大変な経験を乗り越えられて、前向きな人生を送っておられる。

脳血管の病気は誰もがかかる危険性があるだけに、参加者のみなさんの関心も高かったようでした。



《ジネンカフェVol.008》
 今月のトークゲストは、ニコニコハウス鶴里の石川文治さん。文治さんはVOL.002でお話しいただいた石川三枝子さんの息子さんで、ダウン症の障がいをお持ちです。
 石川文治さんは現在33歳。一宮養護学校を卒業後、一般就労でパン屋に11年間勤めます。その後名古屋の緑区に戻るわけですが、チャレンジ精神と自立心でグループホームに入所し、世話人の人たちにサポートしてもらいながら、ひとり暮らしを始めました。その頃の仕事は第二ニコニコハウスでの高齢者への配食と、ご近所のなんでも屋でした。やがて介護保険の導入により、ニコニコハウスが配食サービスから撤退を余儀なくされます。その空いたスペースを活用して、かたひらかたろうがオープンすると、そのスタッフとしても活躍されるようになります。
 そんな第二ニコニコハウスも、自立支援方のあおりを受けて廃止を余儀なくされ、石川文治さんは現在、南区にあるニコニコハウス鶴里内のパン工房で働いています。子どもたちに人気のキャラクターをひとつずつパン生地で描き、中にクリームやジャムなどを詰めて焼き上げます。キャラクターをひとつずつ描いてゆくのでも時間がかかるのに、多い時で500個、少ない時でも60〜70個の注文があるそうです。それを5時間のうちに仕上げるのですから、想像も絶するような集中力です。
 グループホームでは現在ひとり暮らしをしていて、食事だけは世話人さんに作ってもらうものの、あとは自分の生活を楽しんでいるそうです。文治さんの自分のことを卑下せず、与えられたものを受け入れて、精一杯楽しみながら仕事をされている生き方に、参加者一同感心しきりでした。


ご自分で書かれた心覚えを読みながら話す石川文治さん。
:


文治さんのチャレンジ精神と自立心旺盛な生き方に感心しきりの参加者。




《ジネンカフェVol.007》
 VOL.007のトークゲストは、自閉症の娘さんを育てられながら、体の歪みや凝りを心から解してゆくボディセラピストの松原佐紀子さん。
 松原さんのお話は、自閉症についてご自分も、周りも無知だったので、娘さんが専門の医師によって診断されるまで、子どものことをわかってあげられなかった…という痛みから、娘さんが育つためには、まずは自分が娘さんの障がいを受け入れなければいけないと気づいて、娘さんと一緒にいろいろな病院をまわっては様々な療法を試したり、普通の保育園にも通わせて健常児とともに過ごす時間を作るだけではなく、母親以外の人とも接することができるように育てて行ったのだとか。そうしていろいろな人と交わることにより、それまで言葉も発せず、自分の思った通りにしか行動しなかった娘さんが、他者とも会話ができるようになり、人の世話も焼くようになった。それによってまた娘さんも変わってゆき、高校三年になった今、ボーイフレンドもできて普通に会話が成立しているという。また、娘さんが育ってきた中で、また自分もひとりの人間、ひとりの母親として育てられてきたとお話されていた。
 フリートークの意見交換で、自閉症に対する行政の対応の冷たさが指摘された。自閉症が脳の機能障がいの一種であると知られるようになってから、まだ日が浅いからむべからぬものがあろう。また、日進の自閉症の子どもさんをもたれている若いお母さんたちが、周りのママ友に子どもさんの発達の遅れを相談してもわかってもらえないけれど、話を聞いてわかってもらえただけで嬉しいとの発言があった。
 それにしてもこれほどまでに福祉が充実している中で、障がい児をもった親御さんが孤立感を抱いていることに驚いた。それぞれの障がいごとに親の会もあったりするのだが、いまは「個人情報保護法」があるために、行政にしても、病院にしても、どこに同じ障がい児を持った親御さんがいて、どんな活動をしているのか教えてくれないらしい。まあ、それは行政や病院に訊くよりも、福祉のことは社協に訊いた方がよいと思うのだが…。必要な人に、必要な情報を伝えることが可能になるといいのに…と、つくづく思う。



自閉症の娘さんを育てられた松原さんのお話は、同じ境遇の参加者に勇気と望みを与えて下さいました、:


参加者にボディセラピーの実技を施す松原さん。



《ジネンカフェ in 庄内緑地公園》
 1月から行ってきたジネンカフェの夏休み企画として、くれよ0.んBOXさんを飛び出し、名古屋市西区の庄内緑地公園においてディ・キャンプを行いました。
 庄内緑地公園内にあるディ・キャンプ場は、公園の入口から真逆、一番奥まったところにありましたが、目の前に池があり、丁度私たちが借りた場所が木が高く生い茂ったところで、木陰に入れば比較的涼しい場所でした。周りに遮るものがないせいか眺望も抜群で、名古屋駅周辺の新しいビル群を遠くに望むことができました。
 そんな良好な環境の中、バーベキューが始まりました。食材担当のくれよんBOXの井上さんが和牛のスギモトで買ってきた牛肉、豚肉、ナスやカボチャなどの夏野菜、身が肉厚のしいたけ、やきそばが次から次へと焼かれて行きます。初参加の人もいたので、バーベキューをしながら自己紹介をして行くことにしました。
 バーベキューが一通り終わると、軽く運動…とばかりに、かたひらかたろうさんが持ってきてくれた水鉄砲の銃撃戦が始まりました。
  最後に参加者のひとりが、生ギターの弾き語りをしてくれました。すると、周りからもその弾き語りを聴きにくる人たちもいて…。声援やら手拍子、リクエスト…。まるでストリートミュージシャンのようでした。


:食材担当の井上さんが厳選した和牛のスギモトの肉。美味しそう!


早速みんなでいただきました。




《ジネンカフェVol.006》
 Vol.006のゲストは、くれよんBOX代表の井上さつきさん。さつきさんの出身地は岐阜県中津川市。関市の養護学校、愛知県三河一宮町の職業訓練校を卒業後、岐阜市の施設に入所し、機械編みの仕事をしていたものの、肩や手首を痛めたのもありましたが、友人がひとり暮らしを始めたのに刺激を受けて、26歳のときに単身名古屋に出て、通所授産施設でパソコンの勉強を始めたそうです。30歳のときに名古屋の福祉ホームに入り、ひとり暮らしと同時にプログラミングの仕事を始めたそうです。
 31歳のときに福祉情報誌の編集委員を務め、その情報誌での体験レポートで舞妓体験やスキューバーダイビングなどの貴重な体験をしたとか…。34歳、アパートでのひとり暮らしを始めるも体調が悪くなってゆき、35歳のときに結婚し、新婚旅行でオーストラリアへ行った後、頚椎症のために首の手術を受けることになったそうです。
 そして38歳のときに、福祉情報誌編集委員の仲間たちとともに<くれよんBOX>を立ち上げたのです。
 小規模作業所くれよんBOXは、AJU自立の家が発行している福祉情報誌の編集委員が中心になり、障がい当事者自らが立ち上げ、運営している作業所です。くれよんBOXの開所までの経緯は、くれよんさんのHPに詳しい。
くれよんBOX HP: http://www.crayon-box.jp/
 くれよんBOXの活動には、ふたつの大きな柱があります。HPなどによる福祉情報の発信。もうひとつが<まちの縁側>としての活動である。はじめは障がい者を対象と考えていたようですが、活動をしている中で高齢者や子どもなど、いろいろな人たちが関わるようになったそうです。
 なお、くれよんBOXさんでは、週に一日土曜日に「くれよんカフェ」を営業しています。


:井上さつきさんは、ジネンカフェがお世話になっているくれよんBOXの代表


旦那さんとの馴れ初めも披露してくれたようですが…。




《ジネンカフェVol.005》
 今月のゲストは緑区の任意団体(かたひらかたろう)スタッフの小林照美さん。(かたひらかたろう)とは人の名前ではなく、緑区鳴海町の片平学区の人たちが気軽に集えて、いろいろと語り合える場にしたい…という意味で名付けられた空間の名称である。元は社福法人ニコニコハウスが手がける配食サービスの前線基地だったのだが、介護保険が導入されるとともにニコニコハウスさんが配食サービスをすっぱりと辞められたので、その残された空間を活用して4年前に立ち上がったフリースペースなのだ。
 小林さんは子どもの頃から引っ込み思案な性格で、人前に出るとすぐにお母さんの背中に隠れてしまうような少女だったという。子どもの頃の夢はスチュワーデスさんだったのだが、高校生の頃に何を思ったのか養護施設の職員になりたいと思い、保育士の資格が取れる大学に進学した。晴れて保育士になれたのだが、組織の中で動くことに疲れを覚えるようになり、結婚を機会に保育士さんを辞めてしまう。ご主人がログハウスに憧れていて、生まれてきた子どもさんがアトピーだったこともあり、生まれ育った名古屋を離れて環境がよい長野県の白馬に移り住むことになる。
 しかし、二番目の子どもさんが喘息の発作を起こし、良い病院を求めて結局再び名古屋に戻ってきて、緑区に移り住むことになった。生まれ、育った名古屋とはいえ、病弱な子どもさんを抱え、これまでとは異なった土地に住むことになり、かなり精神的にナーバスになっていたと思われるが、その中で子どもさんのために勇気を出して果たした公園デビュー。自分の子どもさんがお世話になっているから、地域のために…と手伝いを始めたニコニコハウスの配食サービスの手伝い。そして元保育士さんという資格を活かした現在の(かたろう)さんでの活動。そして今度は託児サービスまで始めようとされている…。
 小林さんは「子どもがいたから現在の私がある」とおっしゃったが、親と子どもの関係は、一見親が子どもを育てるという、一方的な関係のように思えるけれど、違うのである。子どもは親を親として、そして人間として育てる役目を果たしているのである。いや、これは親と子の関係だけではなく、どんな関係にもあてはめることができよう。人は互いに育ち、育てられる関係なのである。


:ゲストの小林さんは明るいキャラクターの持ち主。

小林さんのお話から、親子の共育効果について学ぶ参加者



《ジネンカフェVol.004》
 vol.004のゲストは、紙しばい・風穴一座の大久保康雄さん。大久保さんは育くみ隊の理事も務めています。生まれつきの脳性まひで体と言語が不自由な大久保さんは、幼年期から青年期にかけて自宅を離れ、名古屋の療養施設に入所しながら、養護学校に通っていました。 養護学校高等部卒業後、一年間三河の身体障がい者職業訓練校で印刷を学んだそうですが、重度の障がい者である大久保さんを雇用してくれるところはどこもありませんでした。
 人並みな生活に憧れていた彼は、自分の存在価値までも否定されたような気になり、このまま生きていて何になるのだろうとまで考え込んでしまったときに、学生時代からの知りあいから電話をもらい、「あなたにはものを感じて、それを詩や文章によって表現できる能力があるじゃない」と励まされたとか。
 その後、大久保さんは全国をひとりで旅してまわったり、文藝同人誌に参加したりして自分磨きをしていたそうです。そんな中、地元の知りあいに勧められて受講した<愛知県人にやさしい街づくり連続講座>で同じグループだった人たちと風穴一座の活動を始め、そのメンバーのひとりに誘われて育くみ隊の理事になり、現在に至っているとのことでした。
 「出会いが育んでくれた人生」という講演タイトルに象徴されるように、大久保さんの人生は人々との出会いによって奥深く、色彩豊かなものになっているのでしょう。



普段のおどけた感じのキャラとは違い、熱弁をふるう大久保さん。

約9年ぶりに大久保さんと再会した人もいました。



《ジネンカフェVol.003》
 VOL.003のゲストは、くれよんBOXさんの利用者の宮崎貴文さん。宮崎さんは二分脊椎という病気だ。二分脊椎とは生まれつき脊椎の癒合が完全ではなく、一部開いたままの状態のことをいう。脊椎には脳からのいろいろな指令を筋肉に伝える役目をする神経の束が走っているのだが、その束の形成に問題があるために様々な神経障がいが生じてくる病気である。彼もトイレコントロールが必要であり、また髄膜が脳の中で固まって水頭症を起こす危険性があるので、幼い頃から二度も脳の手術をしたという。
 でも、宮崎さんのご両親も、宮崎さん本人も、そういった境遇をポジティブに考えておられ、幼い頃から「障がい者」としてではなく、普通一般的な子どもとして育てたし、育てられたという。その宮崎家のポジティブさは、彼にとってこれまでの半生の中で得難い出会いをもたらしてきた。英会話教室の外国人の先生、その教室の仲間たち、そしていまはくれよんの仲間たち…。そして彼のポジティブさは、海外旅行にまで発展してゆく…。
 また、外国人と日本人の障害者に対する接し方の違いを身をもって体験されている。文化の違いもあるけれど、欧米では法整備も進んでいるし、なによりも幼い頃から両者が分け隔てされることなく、普通の゛生活の中に溶け合っている状況がある。それが日本のノーマライゼーションの実現を阻んでいる原因のひとつではないかという気がする。
 宮崎さんのお話は、参加者それぞれの中に眠っていた〈はじめて障がい者に出会った時〉の記憶呼び覚ましたようだ。宮崎さん本人も、参加した方達もよく話し、己の原点を思い出すことができた集いではなかったろうか。


岡崎や東京からも参加される方もおられました。

宮崎さんのお話に触発された、くれよんBOXの代表・井上さつきさんの発言に聞き入る参加者


《ジネンカフェVol.002》
 Vol.002のトークゲストは、かたひらかたろう代表の石川三枝子さん。石川さんは、社会福祉法人ニコニコハウスの常任理事でもある。お話は医師から生まれてから1年しか生きられませんよと言われながら、現在では立派に成長されているダウン症の次男との出会い。影響を受けた愛光園のS先生との出会い、ニコニコハウスを立ち上げるきっかけになったパン屋の話。それを発展させて高齢者のための給食サービスをはじめて、給食の配達に行った知的障がい者の人たちが高齢者から感謝され、また明日も…と期待される関係をみるにつけて、これまで障がいをもった人は「ありがとう」「すみません」と言うことはあっても、相手から言われることはなかった。このことから石川さんはどんな障がいをもっていても、地域社会に貢献できるんだと改めて思ったとか。
 しかし、介護保険の導入により、民間が福祉産業に参入してくるようになると、大量生産ができないニコニコハウスの弁当は苦しい立場に追いやられた。ここで石川さんはすっぱりと配食サービスから撤退し、小規模作業所の空きスペースを、地域の誰もが安心してたまれるスペースにしようと思い、〈かたひらかたろう〉をオープンさせた。そのフリースペースの仕事の一部を、2階の第二ニコニコハウスの利用者さんに委託するという形で、近所の高齢者のご用聞きや、介護保険でヘヘルパーさんがやれない仕事、犬の散歩や花壇の水やりなどの手伝い。幼稚園に行ってつみきを子どもたちに教えたり、さをり折を織ったり…。そうして障がい者たちも地域社会の一員なのだという意識を、当事者に持ってもらうとともに、地域の人たちにもさりげなく植えつけて来られた。今では(かたひらかたろう)がある学区を、障がい者が歩いているのはあたりまえ、イベントをすると地域の人たちが野菜を持ってきてくれたり、手伝いに来てくれたり、手作りの小物の製作を教えに来てくれたりしているという。
 石川さんは法人の舵取りを、めまぐるしく変わる福祉施策を逆手にとって、そのときそのときの施策に沿ってされている。その素早い決断力やふるまいは、驚くほどエネルギッシュで、しなやかである。

                   

くれよんBOX代表・井上さつきさん(左端)の発言に聞き入る参加者

アルバムを開きながら、これまでの活動のお話をされる石川さん(右端)


《ジネンカフェ》とは・・・
 NPO法人まちの縁側育み隊と昭和区の小規模作業所くれよんBOX、緑区のフリースペース・かたひらかたろうとの共催によって立ち上がったプロジェクトです。
 ジネンカフェの〈ジネン〉を漢字で表すと〈自然〉。つまり〈あるがまま〉ということ。障がい者が自分らしく生きられる社会理念のことをノーマライゼーションと呼びますが、現代における競争原理の中で自分らしく生きられなくなっているのは障がい者のみならず、健常者も同じではないでしょうか? ありのままの自分を受け入れ、自分らしく生きている障がいのある人、あるいはその支援者の方を毎月お招きして自由にお話をしていただきます。
 この集いを〈カフェ〉と名づけたのは、街角にたたずむカフェのように、気軽な雰囲気で参加してもらいたいと思ったからです。あなたの、自分らしい生き方のヒントが見つかるかも知れませんよ。

《ジネンカフェVol.001》
 講師に岡崎市で《明日の風文芸賞 岡崎》を立ち上げ、文芸の世界を通してノーマライゼーションを実践している脳性まひの詩人・栗木宏美氏をお招きして「明日の風を感じてみませんか? 〜感性や感動をあなたと共に〜」と題した講演をいただくとともに、参加者に〈自分らしく生きること〉〈自分らしく生きる場〉〈どのようにしたら自分らしく生きられるのか〉考えてもらうため、テーブルに分かれて〈自分のキラリ〜ンと、トホホ‥を語りあおう〉というテーマのディスカッションを行った。
 また、栗木さんの講演の前には、くれよんBOXさんのランチを食べながら、オカリナグループたんぽぽさんや、生ギターでフォークソングを熱唱してくれた草のネット・ロココさんのミニコンサートも楽しんだ。
 
栗木さんの講演に熱心に耳を傾ける参加者 ランチを担当してくれた、くれよんBOXさんは大忙し。


ロココさんはギターの弾き語りでフォークを熱唱してくださいました。



「たんぽぽ」さんのオカリナ演奏は、さわやかな風のようでした。







プロジェクト
東区文化のみち創造
ENGAWA design
公共施設活用支援
子どもまち学習支援
まち育て支援
まちの縁側学習・交流
まちの縁側フォーラム
指定管理者制度学習会
まちの縁側大楽
まちの縁側大楽−私からはじまるまち育て
チャレンジドハートプロジェクト
地域共生のいえづくり講演会
調査研究・提言
イベント参加

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